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ピアノ上達の道5-母の病

オーディション前の夏休みの話をします。

夏休みは母と箱根へ旅行しました。


私の母はイギリス人で英語の先生をしていました。

ケンブリッジ卒で、シェイクスピアもスラスラと読め、フランス語も堪能、ラテン語も勉強していて、英語の専門家です。


思い出す母の姿はダイニングでいつも本を読んでいる所です。


今も鮮明に思い出します。


思い出す…と何故言うのかというのは大人の方はお分かりかと思いますが、母はもうこの世にはいないからです。


私と母は小さい頃は親子という関係でしたが、ある程度の年齢、思春期位でしょうか、その頃からは信頼できる母であり、親友のような関係に変わっていきました。


母はともかく、私の話をいつもよく聞いてくれました。学校での出来事、良いことも悪いことも。


何か私がアドバイスを欲しているように思った時はアドバイスをくれましたが、ほとんどは自分が話しているうちに自分の中で答えが見えて納得していました。


傾聴のプロだったなぁ、とつくづく思います。


日常のショッピングもいつも一緒、ランチも毎週、夏休みはほぼ毎日のように一緒に出掛けました。


長期休暇には母と二人で色んな所へ旅行もしました。 


ともかく誰よりも大切で、まるで自分の身体の一部のような存在でした。


そんな母と最後に二人で旅行に行ったのがこの短大1年の夏休み、箱根でした。


実は旅行前に身体に異常を感じ、検査を受ける直前の状態での旅行で、母は悪い予感を感じていたのか、不安であんまり楽しめない、というように言っていました。 


私はまさか…となるべく心配しすぎないように考えていました。


箱根湿生花園へ行った時のお天気がとても美しく、ともかく写真がきれいに撮れたのです。


その時、通りすがりの方に撮っていただいたツーショットがとても素敵で、私が母を写した写真もなんだかまるで母が天国にいるように見えたのです。


もしかしたら母はもうすぐいなくなるのではないか…


そんな予感をこの時から感じていました。

むしろ、小さい頃からずっと母は早い時期にいなくなることを何故か感じていました。


旅行から帰り、検査を受けたらやはり悪性の病気でした。


夏休み明けは手術、通院治療と大変苦しい日々で、苦しむ母をなんとか助けたい思いでいっぱいでした。

また、もしこのまま助からなかったらどうしよう、母を失ったらどうしよう、という思いもありました。


そんな中で学校へ通い、ピアノを練習し、土曜はアルバイトをする生活でした。


自分の短大生活は、母の闘病と切り離せないものになっていたのです。


治療の甲斐はあまりなく、全身に転移してしまい、

翌年、短大1年の2月、母は治療の副作用で脳梗塞を発症しました。


右半身麻痺、言語障害、という重い後遺症になってしまい、リハビリ病院に長期入院することとなりした。


話せなくなった母を目の当たりにした時は、悲しみ、ショックを飛び越えて、自分がしっかりしなきゃ!母を励まして助けなきゃ!と思いました。


ともかく頑張って毎日学校帰りにはお見舞いへ行き、少しでも言葉を思い出してもらえるように、話しかけました。


あんなに本が大好きで、聡明な母が、本が全く読めない、話せなくなって、ともかく悲しかったです。


多くの人に英語を教えて、生徒さんに愛され、家族を支えて、子供を二人育て上げ、世の中に立派に貢献してきた人が、こんな苦しみを受けるなんて、世の中は無情だと思いました。


なぜ母がこんな辛い思いをしなくてはいけなかったのか、今でも分かりません。


ただ、一つだけ言えるのは、

「こんなに゙苦しくても、最期まで生きなさい」

と母が全身全霊をかけて伝えてくれたことは確かです。


母の闘病中は父や弟と確執が生まれてしまい、喧嘩の絶えない日々で、母に泣きながら色んな愚痴をこぼしていました。

 

そんな時、母は言葉はあまり出なくても、一緒に泣いて、手をにぎって、生きるのよ、と言ってくれました。


今から10年前の9月15日、母は最期まで家族を心配し、大切に思いながら、旅立って行きました。


この頃には短大2年でした。

二ヶ月前の7月には2台ピアノの演奏試験がありました。


他の先生の門下の学生さんとペアになって、モーツァルトの魔笛序曲を2台ピアノで弾きました。


4歳歳下で、とても真面目な学生さんで、教職課程も取っていた方なので、早めに合わせ練習をやろう!となりました。


私の母のことも伝えてたら、その方は朝練をするついでだから、練習室を押さえておくよ!といつも予約を取ってくれました。 


とても優しい人で、こんな辛い状態でも、学校にいる時間が心の救いでした。


母の闘病中になってからは、ピアノの練習時間は取れないこともありましたが、先生や他の学生さんの助けがあって、学校は心休まる場所へと変わって行きました。


学校にいる時は、上手い下手とか、出来る出来ない、関係なく、元気に生きていることを実感できました。


音楽をすることって生きていることを実感することなんだな、って感じていたんですね。


また、同じ音楽をやる仲間、ライバルでもあるけれど、深い所では仲間である、ということも実感しました。


2台ピアノの本番には、学校のホールまで父が車椅子の母を連れてきてくれました。


この時の演奏中はなんと魔笛のキャラクターが自分の隣で指揮を振っていたようでした。


ともかくとっても楽しくペアの学生さんと演奏出来ました。


母に最後にこの演奏を聴いてもらえて本当に良かったです。 


元気だった頃、学祭コンサートで演奏する私を観て、もう貴方は子供じゃなくなったのね、と言っていたんです。


少しは成長した姿を見せられたのでしょうか。

本当はこれから親孝行できたのに…


この教室も本当なら母が英語担当、私がピアノ担当で、

二人で教室開業しようね、と話していたのです。

母の後押しなしには今のこの教室は誕生しなかったと思います。


そんな母を失った悲しみ、ショックは計り知れないものでした。


10年経った今、やっと母のいない生活に馴染んできたように思います。


母のいない世界で果たして生きていけるだろうか?と不安でしたが、父や弟と和解し、何より学校の先生方の暖かいレッスンで、学校生活を続けられました。


声楽レッスンの先生に、「音楽があって本当に良かったわね。やることがあるといのは救われるわよ。」と言われ、本当にそうだな、と思いました。


音楽なしには母の死から立ち直ることは出来なかったと思います。


音楽への感謝、暖かく教えて下さった先生方への感謝、優しく見守って楽しい時間を過ごさせてくれた友人への感謝、音楽の道へ進むことを認め、支援し続けてくれた両親、家族への感謝、

ともかく感謝なしには今の教室も私も成り立ちません。


そして教室を10年という年月、続けてこれたのは教室の理念をご理解いただき、継続して通って下さる生徒さん、保護者の方のお陰です。


感謝の思いでいっぱいです。


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学生生活の話はまだ少し残っています。

また少し学生生活の話もしていこうと思います。